兎祇物語

創作小説を掲載します。

潮騒

兎祇物語

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紅兎

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惜別編

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(1)潮騒

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潮騒

終わりなき悲しみの音色…

果てる事なき音色…

凍てつく海の彼方に、灰色の景色が広がって行く。

何処まで見渡しても変わらぬ、激しい波の揺らめき…

チラホラと降りしきる、銀色の雫が、枯れ果てた涙の代わりに、男の頬を伝う。

赤袍紫袴…

鱶見本社領(ふかみのもとつやしろのかなめ)の親社宮司(おやしろのみやつかさ)…

彼に名はない。

遥か昔に忘れ去っていた。

故に、人は名無しと呼ぶ。

『綺麗だなー…

綺麗だなー…

赤ちゃんの揺かごみたい…』

名無しの耳の奥底をよぎるのは、小さな身体(からだ)で五人もの赤子を生み出して、命を縮めてしまった少女の声…

『私も、もうすぐ、あの揺かごに揺られるのね…』

仄かな陽光を受けて煌めく黒い波を見つめながら言うと、早苗は自らの生み出した命達よりも幼い笑みを、貴之の浅黒い腕の中で傾けた。

『馬鹿を言うな…

お前は、悪い夢をみてたんだ。ずっと七転八倒してな…』

『夢…』

『そうだ、悪い夢だ。この夢が醒めれば…これからなんだ、お前には、楽しいことや、嬉しい事が、これから…でなければ、お前、今までどんな…』

貴之は、獣染みた風貌を背け、素っ気なく言う声を掠れとぎらせる。

『泣かないで…』

早苗は、自分の境遇より、貴之の悲しむ姿に涙ぐみ…

『泣いてねーよ。誰が泣くもんか…笑ってやらー。』

そう言って鼻を鳴らす貴之の頬を撫でて優しく笑いかけた。

『私、幸せだったよ。

春には綺麗な花がいっぱい咲いたし、夏はスイカやカキ氷が美味しかったなー…

秋は、坊や達の掌みたいなモミジがヒラヒラ舞い降りて、頬を撫で撫でしてくれた…

冬…

みんなが、私の枕元に拵えてくれた雪だるまや雪兎が可愛いかったー…』

『おまえ…』

『何よりね、みんなと出会えてよかった…

タカ兄ちゃんと出会えて、よかった…

産まれてきて、よかった…

ありがとう…』

そして…

貴之は…

『坊や…

今、迎えに行くぞ…

父さんと暮らそうな…本当のお父さんと暮らそうな…

おまえを誰にも渡さねーぞ…例え、県会議員様だろうと、県知事様だろうと…

おまえは誰の子でもねー!

俺の子だー!』

この場所で…

名無しが今立つこの場所で、十数発の銃弾を受けながら、あの赤子の産着を抱いて、海に飛び込んで行った。

そう…

最後まで、自分の子だと信じて疑わなかった、早苗が四人目に産んだ子を探しに行く為に…

「波が哭いている…」

不意に、女のような声が男の追憶を破った。

和幸…

振り向くと、憂いを帯びた切れ長の眼差しは、名無しと向き合おうともせず、断崖の岸壁に打ち寄せる波を見つめていた。

「これは、タカを悼む哭き声だ…いや、あいつだけじゃない。サナちゃんや、それから…この海に眠る多くの人々を悼む哭き声だ。

トモちゃんは、そう言って、ここに立つ度に涙を流していたよ。だけど…」

和幸は言いかけ口を噤むと、静かに空(くう)を掴むように、拳を半分握る仕草をした。その掌には、最後まで自分を許せぬまま逝ってしまった、愛する少女のか細く儚げな手の温もりが、鮮明に蘇っていたのだろう。

『裸のまま、雪の上に寝かせて…』

智子のか細い声が、和幸の脳裏を過ぎる…

「良いよ…」

和幸は、静かに瞑目し、脳裏の声に答えて言った。

「だったら、僕も裸になって、一緒に横たわろう。」

『そんな資格ない…』

脳裏の声は、今度は涙を滲ませて言った。

『カズちゃんに優しくされる資格も、看取られる資格も…増して、一緒に凍え死んで貰う資格なんてない…』

「その通りだ…」

答える和幸も、次第に声を滲ませてゆく。

「このまま、幸せに死ぬ資格なんて…死んで楽になる資格なんて、君にありはしない…」

「ならば、生きろ。」

名無しが、追憶に分け入るように言うと、和幸は漸く現実に立ち返り、こちらに振り向いた。

「タカ君の分も、サナちゃんの分も、何より、トモちゃんの分もな。」

名無しは言いながら、一冊のアルバムを手渡すと、和幸は、眉一つ動かさず開き見た。

最初の頁には…

両手を押さえつけられた十にも満たぬ少女が、小さな脚を股裂のように押し拡げられ、小さな神門(みと)に図太い穂柱を貫かれ泣き叫んでいる姿…

次の頁には、十二くらいの少女が、同時に三人の男達に口と股間と尻に穂柱を捻り込まれ、両手には別の男二人の穂柱を握らされている姿…

更に頁を捲れば…

そこには、全裸にされた年端もゆかぬ少女らが、数多の男達に、ありとあらゆる陵辱をされる姿があった。

あるいは…

陵辱する者の意に沿わなかったのであろう少女が、目を覆うような仕置を受ける様さえも記録されていた。

どの写真も、少女は苦悶に満ちた顔をしていた。

しかし、一枚だけ、満面の笑みを浮かべる写真があった。

美香…

名無し自身は一度も会った事のない少女は、仕立てたばかりの法被一枚だけ羽織り、か細く白い身体(からだ)のほとんど全てを露わにして、笑っていた。

その隣には、和幸が愛した少女…智子が、色違いでお揃いの法被を着て並び、一緒に笑っていた。生前、遂に名無しが一度も見る事のできなかった、幸福そうな笑顔である。

そう、苦痛に満ちた二人の短い人生、全ての分の幸福が、その写真一枚に凝縮されていた。

「僕にも背負って生きろと?」

和幸は、眉一つ動さず、美香と智子の並んだ写真を見つめながら言った。

「背負うのではなく、胸に抱いてやれ。痛みや苦しみではなく、束の間、幸福だった時の笑顔をな。」

「幸福?笑顔?それを奪ったのは誰なのですか?」

「私だ。」

名無しが和幸の目をまっすぐ見つめて言うと…

「相変わらず、卑怯なお人だ、貴方は…」

和幸は静かにアルバムを閉じると、再び私に背を向け海を見つめた。

波は消え、辺りは鎮まりかえっていた。

しばらくの沈黙の後、和幸の脳裏にまた、智子の滲んだ声が過り出した。

『私が死んだら、波のない静かな時に流して…』

「この海に眠っている、他の人達のように、哭いて貰う資格なんてないから…だってさ…」

和幸は、揺らめく波間へと視線を投げると、やや荒げた声で言った。

「笑えるだろう、タカ。泣かれる資格ないだってさ…本当、笑えるだろう!」

一瞬、和幸は、幾ら振り払おうとしても消えぬ智子の声を打ち消すように、アルバムを海に投げ入れようと、思い切り振り上げた。

しかし、同時にまた、あの満面の笑顔で美香と並ぶ智子の写真が、脳裏をかすめると手を止めて…

「だからさ、笑って迎えてやってくれよ。サナちゃんや美香ちゃんと…もう、泣いたりなんかしないでさ…思い切り笑って迎えてくれよ。」

振り上げたアルバムを、思い切り胸に抱きしめた。

「カズ君…」

名無しが、後ろから肩に手を掛けると、振り向ける切れ長の眼差しに涙はなかった。

ただ、風に靡かす背中まで伸ばした髪の狭間から、底知れぬ哀しみを帯びた女と見紛う面差しを覗かさせていた。

皆、ここに眠っている。

凍てつく海の底に沈められて、眠っている。

「私もいつか、この海に眠ろう。」

名無しがポツリ呟くように言うと、和幸は抱き締めていたアルバムを、無言で私に差し出し返した。

その時…

「親社(おやしろ)様!カズ兄ちゃーん!」

遥か後方の彼方から、菜穂の声が聞こえてきた。

「ナッちゃん…」

つい先日、十五の誕生日を迎えたばかりの菜穂は、胸まで垂らすおさげを揺らしながら、目を涙ぐませて、駆け寄ってきた。

「よかった!よかった!よかったー!」

菜穂は、和幸の胸に飛び込むと、シクシクと泣き出した。

「カズ兄ちゃん、心配したんだよ!本当に、本当に、心配したんだよ!」

和幸は、菜穂の肩を抱き、おさげの頭を撫でてやる。

「カズ兄ちゃんが…カズ兄ちゃんが…もし、この海に飛び込んでいたら、私も…私も…」

三年程前…

花嫁衣装を着、初めて産んだ女の子を抱いて、和幸と写真を撮った時を思い出す。

あの時より、菜穂は、少し背も伸び、胸も膨らみを帯びていた。

「ナッちゃん、大きくなったね。」

和幸は、漸くあの時と同じ優しげな笑みを浮かべ、菜穂の涙を拭ってやった。

「カズ兄ちゃん…」

菜穂も、笑顔を返しながら、和幸の頬を撫でる。

しかし…

「どうしたの?」

問い返す和幸の眼差しを、菜穂は何も答えずジッと見つめた。

和幸の目に、深く刻まれた悲しみを見てとったのだろう。

菜穂は、また、涙目になりかける。

「ナッちゃん。」

和幸が声をかけると…

「うん。」

菜穂は、気を取り直したように、和幸に笑顔で頷いた。

「帰ろう、みんな待ってるよ。」

和幸は、再び海の方を向き、遠く地平線を眺めやる。

誰かに何かを問いかけるように。

いつまでも、いつまでも…

しかし、海は何も答えない。

「愛ちゃん、大きくなったよ。」

菜穂は、息を大きく一つつくと、海の底に眠る誰かに変わって答えるように、思い切って言った。

「愛ちゃん…」

「うん。もう、赤兎じゃないよ。着物、着てもよくなったんだよ。」

「それじゃあ、仔兎祇(こうさぎ)が…」

和幸は、忽ち、複雑な表情をする。そしてまた、そこにいない誰かの手をとるかのうように、拳を半分握る仕草を見せた。

「私の子だよ。」

私が言うと、和幸は海の方を見つめたまま、ハッと目を見開いた。

「私が、あの子を孕ませたのだ。二人で田打部屋に篭ってな…」

「貴方が…」

和幸は、両目を冷たく光らせ、両手をワナワナと震わせた。

「なかなか、孕まぬからだよ。十二になっても孕まぬ赤兎は、卵を産まぬ雌鶏、乳を出さぬ牛より劣る。飢えた鱶の餌食にするしかない。」

「だから…だから、餌食にされたのですか?貴方という飢えた鱶の…」

「そうだ。だが、お陰で、見事に赤兎の役割を果たしたぞ。あの子は男達が白穂と共に放つ領内(かなめのうち)の罪咎を体内に受けて清め、汚れなき赤子に替えて世に出したのだ。あとは、潔き青兎として、根津国聖領 (ねづのくにひじりのかなめ)に捧げらるだけだ。」

私が言うと、和幸は、震える手を、懐に忍ばせてるものに伸ばした。横目で睨み据える冷たい眼差しは、青白い炎にも似て、極限の怒りに燃えてるようでもあれば、深い憂と悲しみに哭いてるようにも見えた。

「サナちゃんやトモちゃんを、踏みにじり、食い物にし、ボロ切れのように傷つけたのは、私だよ。」

「その上、愛ちゃんまでも…僕達の、みんなの宝物だった、あの子までも…」

和幸は、声を滲ませ震わせながら、懐のものをゆっくり引き抜こうとする。

私は、静かに目を瞑った。

『カズ君、存分にするが良い…』

心の中で、そう呟きながら…

すると…

「カズ兄ちゃん。辛かったね…悲しかったね…何もしてあげられなくて、ごめんね。」

菜穂が、後ろから優しく和幸を抱きしめ、シクシクと泣き出した。

「親社(おやしろ)様も、同じだったのよ…

どんな思いで、愛ちゃんに穂供(そなえ)たのか、どんな思いで、命と引き換えにサナちゃんに赤ちゃん産ませたのか…

一番知ってるの、カズ兄ちゃんよね。」

和幸は、忽ち張り詰めていた肩の力を抜き、目を瞑ると、大きく息を一つ吐いた。

「親社(おやしろ)様、愛ちゃんが聖領(ひじりのかなめ)に送られるのはいつですか?」

「三月後…

雪解けを待ってだ。」

私が答えると、和幸は無言で海に背を向け、まだ泣き続けてる菜穂の肩を抱いて歩き出した。

神話の時代。

爺祖大神(やそのおおかみ)に少女(おとめ)に変えられた兎達は、鰐鮫の背を渡り、この海を渡ってやってきたと言う。

男に抱かれ、子を産み、血を残す為だけに…

少女(おとめ)となった兎達は、子を産む道具に過ぎぬ…

子を産めなくなった兎達は、この海に打ち捨て流されてゆく。

潮騒

終わりなき悲しみの音色…

果てる事なき漣の音色…

今日も、底深く眠る兔達の面影が、ゆっくり、その場を後にする私達の背中を、何処までも追いかけるような気がした。